少し前のニュースですが、フィリピン・ルバング島に30年間潜伏していた元日本陸軍少尉の小野田寛郎さんが1月16日に亡くなられたそうです。
小野田さんはスパイや諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後にフィリピンへ渡り、終戦後もルバング島の密林にこもって戦闘を続けていたそうです。
1974年に任務解除の命令を受けて帰国し、日本で大きな話題となりました。
ルバング島から帰国した小野田さん
小野田寛郎さんは元陸軍少尉で、スパイや諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後にフィリピンへ渡り、終戦後も与えられた任務を遂行するべく、ルバング島の密林にこもって戦闘を続けていたそうです。
1974年に任務解除の命令を受け、日本に帰国した際は大きな話題となり、その後はブラジルへ移住して牧場を営み、近年は小野田自然塾を主宰し、野外活動を通じたボランティア育成に尽力されていたとのこと。
米紙のニューヨークタイムズやワシントンポストでも、小野田寛郎さんを称賛する記事が掲載されました。海外でも有名だったんだ・・・
いわしはその当時のことはよくわかりませんが、帰国の際は熱烈な歓迎を受け、著書の「わがルバング島の30年戦争」は20万部以上も売れたそうです。
いやぁ、すごい人がいたもんだ。30年も島に潜伏してサバイバル生活を営むというのは、想像もつきません。でも、30年経ってから帰国なんて浦島太郎みたいですね。
ちなみに、同じ浦島太郎組の横井庄一さんも、グアムでのサバイバル経験を生かして、帰国後は耐乏生活評論家として活躍されたそうです。帰国時の第一声「恥ずかしながら帰って参りました」はその年の流行語になりました。
小野田寛郎 1年前のロングインタビュー
さて、小野田寛郎さん死去の際にはいろいろなニュースが流れましたが、その中でこんなインタビュー記事を見つけました。昨年日刊スポーツに連載されたロングインタビュー記事です。(面白い記事でしたが・・・現在は削除されたようです)
どれも今の日本人の口からは絶対に出てこないような興味深い話ばかりです。
危険に対する備えは今でも染み付いています。寝ている時に起こされても、すっと上半身を起こしたりしない。まず、うつぶせになり、起こした人間を確認してからゆっくりと起き上がる。すぐに起き上がったら標的になりますから。これは、体が覚えてしまっている。
「ジャングルの中で、実は一番怖いのが雨なんです。たとえ熱帯でも、寝ている間、雨に打たれ続けたら死にますから。洞穴入ったり、掘っ立て小屋を造ったり。考えてみれば、昔から人間が一番必要としていたのは雨よけなんですね。今でも雨が降ると、あの時はあんなひどい思いをした、というのがよみがえってくる。
「生ものは食べません。刺し身やすしはどんなにうまいといわれても食べません。生水も飲みません。水道水でも生臭さを感じてしまうんです。煮沸したものは味が違いますから。肉もレアはだめです。(ルバング島では)牛を捕まえると干し肉や薫製にしました。生では2日しかもちませんから」
「人間は本能的に自分の体に直接入るものには気を付けているんですね。(ルバング島ジャングルでの極限生活で)味覚が敏感になったのも、そういうことなんでしょう。
さすが、30年もルバング島のジャングルに潜み、サバイバル生活を続けていただけのことはあります。小野田さんならどんなことがあっても生きていけるんだろうなぁ。
他にも、小野田さんが帰国後わずか半年でブラジルへ渡り、日系人同士が「勝ち組・負け組」に別れて対立しあう中を泳いできたという話もなかなか面白い。
日系ブラジル移民社会では、終戦の報が日本語ではなくポルトガル語に訳されたため、あいまいな形で伝わったそうです。このため、敗戦はデマであり日本は勝っていると信じる人が多かったとのこと。こちらは勝ち組と呼ばれ、一方で日本の敗戦をきちんと認識し、受け入れた人もいたそうです。この人たちは負け組と呼ばれました。
遠いブラジルでの出来事とはいえ、終戦後も敗戦はデマだと言っていた人がいたなんて、今の時代では到底信じられないですよね。
小野田寛郎「わがルパング島の三十年戦争」のゴーストライター
さて、小野田寛郎さんに関しては称賛ばかりが目立ちますが、twitterでこんな記事があることを知りました。
小野田寛郎氏のゴーストライターが慚愧の念に耐えかねて書いた”舞台裏”が凄まじくて一気に読んでしまった。フィリピン民間人惨殺になんら悔恨の念もない小野田氏と彼に群がった人々に震撼する。http://t.co/xyZyMhy28N
— SIVA (@sivaprod) January 17, 2014
小野田寛郎さんのゴーストライターだった作家の津田信さんが、「幻想の英雄」という本の中で小野田寛郎さんとのやりとりを公開されています。
津田信さんは小野田さんと3ヶ月間一緒に生活して、「戦った、生きた」という手記を雑誌に連載したそうですが、これは小野田さん自身が書いたものではなく、津田信さんの代筆だったということです。
その後、「わがルパング島の三十年戦争」に改題して出版されたのですが、そのときトラブルに見舞われます。
津田信さんのご子息、山田順さんが「幻想の英雄」全文を公開されています(2014年8月に停止)。
さすがに全部読むのは大変なので、興味のあるところを流し読みしたのですが、帰国時の熱狂ぶりに困惑したり、小野田手記にまつわる思惑に翻弄されたり、ブラジルへ移住したり・・・まあ、いろいろあったんですねぇ。
「幻想の英雄 小野田少佐との三ヵ月」はKindle版で再販されています。
小野田さんがルバング島で仲間と住民を襲って食料を奪いながら生活し、ジャングルに潜んでいた30年の間に、30人のフィリピン人を殺害し、100人に負傷を負わせていたということも初めて知りました。小野田さんにとって、ルバング島はずっと戦場だったのですね。
当時の事情はわかりませんが、戦後も帰国せず、現地に留まった日本兵はたくさんいます。どうして小野田さんが「発見」され、「最後の日本兵」として大騒ぎになったのでしょうかねぇ。残留日本兵とはまた違うのかな。
結局、小野田さんは日本に帰国した後も、人々の思惑と熱狂の中で、わけもわからず翻弄されたように見えます。
小野田さん帰国 42年後の新事実
2016年7月に、小野田さんの帰国に関する日本政府の極秘文書が発見されたとのニュースがありました。その文書には、小野田さんの帰国を巡り、日本とフィリピン間で極秘交渉が行われていたことが記載されていたとのこと。
日本政府は1956年に結ばれたフィリピンとの協定で、戦後賠償は解決済みとの立場でしたが、戦争終結後も残留日本兵が現地住民に被害を与えていたことは事実であり、反日世論の高まりを恐れて3億円の見舞金を支払ったそうです。
小野田さんの帰国問題は、日本とフィリピン間の重要な政治・外交案件だったのですね。
戦争経験者の話を聞こう
ところで、小野田さんは「幻想の英雄」の中でこんなことを語っています。
いまさらぼくが、こんなことを声を大きくして言ってみたところでどうなるか知らないけど、聞かれりゃ言いますよ。あの戦争で三〇〇万の生命が失われたんだ。オレたちを連中はバクチに売ったんだ。戦争に負けたことは仕方がないとしても「一億玉砕」を真にうけて戦場へ行ったらこのざまだ。歓呼の声でだまして若い生命を殺したんだ。人口が減り、失業がなくなれば政治家どもはまた出世する。うるさい奴らがいなくなれば安閑として暮らせる。というんで戦争をやったんだとすれば、そりゃバクチだ。負けたら負けたでしょうがねえが、バクチで負けたんだから、腹を切れ。いまからでも遅くない。口惜しかったら腹を切ってみろ。(後略)
実際に戦場で戦った人が言うのですから、言葉の重みが違います。
いわしは天下国家やイデオロギーを語る前に、戦争経験者からもっとこういう話を聞かなければいけないと思うのです。
小野田さんが亡くなられた時は91歳、他の元軍人さんや戦争経験者の方も同じような年齢です。小野田さんのような戦争経験者から話を聞ける時間はあとわずかしかありません。
「あの戦争で三〇〇万の生命が失われたんだ。オレたちを連中はバクチに売ったんだ。戦争に負けたことは仕方がないとしても「一億玉砕」を真にうけて戦場へ行ったらこのざまだ。歓呼の声でだまして若い生命を殺したんだ。」
「負けたら負けたでしょうがねえが、バクチで負けたんだから、腹を切れ。いまからでも遅くない。口惜しかったら腹を切ってみろ。」
これは、日本軍が唱えるキレイゴトと、戦地の現状とのあまりの乖離に苦しんだ小野田さんが、心の底から叫んだ言葉だと思います。
いざ戦いが始まれば、天下国家論やイデオロギー、そして正論や美学は通用しません。勝敗を左右するのは身も蓋もない現実だけです。
いわしにとって最近よく見かける国家論や対外関係論は、右だろうが左だろうが、どことなく嘘臭さを感じてしまいます。そりゃそうでしょう、国家論や対外関係論の行く末を知らない人間がどんなことを語っても、リアリティに欠ける話になってしまいますから。
天下国家やイデオロギーを語るということがどういうことなのか、身をもって知る人間から話を聞くことは大切だと思います。でも、平和が長く続いた今の日本では難しいのかもしれませんね。
「生き抜く」最後の日本兵・小野田寛郎
小野田寛郎さんのロングインタビューです。元はNHKの番組なので消されるかもしれませんが、一応貼っておきますね。
それにしても、小野田さんがインタビューで見せる笑顔はとてもステキですね。帰国直後の硬直した顔とはえらい違いです。小野田さんの人生は波瀾万丈で大変だったと思いますが、この動画ではとても穏やかな表情をされてます。
「生き抜く」最後の日本兵・小野田寛郎